儀礼とデザイン
Design and Ritual

私が独立して初めていただいたのは、葬儀にまつわる様々なデザインだった。数年間お仕事をご一緒し、デザインを媒体として、送り手と受け手を繋ぐことの重さを深く学ばせていただいた。また石巻を中心とした宮城県のプロジェクト「Reborn Art Festival 2017」では、鎮魂と生誕が共存する、静かで力強い地域の営みのパッケージデザインをご依頼いただいた。死んでしまったらもう物理的にはおしまいなのだから、パッケージデザインなど不要なのではないか?というふうには、やはり人間は生きられない。デザインされた様々な人間の行為やメッセージの裏には、やはり今でも「祈り」が存在している。

そのような経緯もあり、最近では生きる叡智としての「祈り」の意味を考えている。ペルー人の知人の祖母が「毎朝2時間くらい、よくお祈りしている」。ポルトガル人の知人の母も「よくお祈りしている」。祈る人と、自然の間を繋いでくれる世界中のシャーマンは、職業としてどのような社会的機能を歴史上果たし、今どのようにあるのか。

ベルリンで出会う様々な国から来た人の、本人もしくは親族などの日常の祈りの話を聞くにつれ、日本のインターネットで散見する「このユタなりイタコは’当たる’」というようなランキングに対して、非常な違和感を覚えた。「日本がイタリアになりますように」「月が2つになりますように」といった超常現象レベルの希望をシャーマンにアウトソーシングし、発注主の納品期限内に見られる結果に応じて価値を定める、という考えは、古代からもあったけれども(どこの共同体にも、昔は悪天候の折に生贄にされる人々がいた)、そこに救いがあるのかどうか、わからない。

そんなことを考えていて、ふと浮かんだイメージは「エコー」だった。コウモリがエコーで自分の空間を描くように、真摯に祈るということは、自然や時間といった現実と自分の距離を、祈るその声によって測る営みなのではないかと思った。だから、多くの祈りの儀式にとって、よく声を出し、かえってくる自らの、また自然の音に耳を傾けることは、祈ることと同じくらい大事なのではないか。よく祈って、祈りが成就する、しないというのは、単純にやまびこが返ってくる山までの距離の問題であって、もしかしたら一生のうちに届くかわからない祈りもあるかもしれないが、それは単に遠いということ以上でも以下でもなく、届かないということは祈りを否定することにはならない。地球外生命を求めて旅を続けている宇宙の観測船も、現代的な形での祈りといってもいいと思う。

または、祈りとは、身体感覚の時間と空間の2方向に向かう拡張の訓練とも言える。アコースティックに演奏する音楽家は、身体の延長として音響を捉えているためか、空間に対する感度は常人と異なるだろう。外部刺激に対する認知力も高り、レム催眠状態における意識を維持することで、無意識領域までも制御可能な意識領域に取り入れることが可能になる。そのように日常的に精進することで、古代人は短い人生を、我々の何倍もの濃度で認知していたのかもしれない。そのように考えると、「自然」という概念の幅が大きく広がって、自分のまわりの、見えなかった様々な響きが色づくような気もする。

写真:門倉未来

coming soon.